石狩のワシ派、タカ派

札幌と石狩川流域の猛禽類の狩りと子育てを動画で記録します。

聖なる雌牛は飢餓地獄のシンボル

今でも、人と車で雑沓するインドの街路を、「聖なる雌牛」は悠然と徘徊しているのでしょうか。聖なる雌牛をみて、インドの人は何を想うのでしょうか。

聖なる雌牛は飢餓地獄のシンボル、という発想は、「ヒトはなぜヒトを食べたか」というマーヴィン・ハリスの本を読んでいるときにひらめいたものです。

聖なる雌牛は、今でもトイレ事情のよくないインドで、人の排せつ物を処理する掃除屋としての役割を、ゴータマ・ブッダの生まれるずっと前の時代からはたしてきました。

雌牛を殺すことは、バラモンを殺すことに等しい、という厳しい御触れが出たということは、聖なる雌牛にも命の危険があったということです。それは、有史以来、インドをしばしば襲った数百万人が餓死する、大飢饉のときです。

なんの役にも立っていないように見える雌牛でも、殺して食べてしまったら最後、たとえ大旱魃が去って恵みの雨が降っても、二度と田畑を耕すことはできません。聖なる雌牛を食べずに生き残った者だけが、その先も生延びることができたのです。

ゴータマ・ブッダをはじめとする、人並みはずれて鋭敏な感受性をもつ宗教家たちの多くが、聖なる雌牛をみて、飢餓地獄の阿鼻叫喚を連想したとすれば、人口増加を抑制する禁欲的思想にたどり着くのは、きわめて自然なことだと思います。

今、「生産性」という言葉が奇妙な文脈で使われて問題になっています。しかし、人類は少子よりも、むしろ多産に苦しんできました。多産はできれば避けたい迷惑な現象であり、恥ずべき現象だったのです。異常気象がこの先ますます悪化するとき、100億人の人類が飢餓地獄に堕ちることはないと、誰が保証できるでしょうか。