石狩のワシ派、タカ派

札幌と石狩川流域の猛禽類の狩りと子育てを動画で記録します。

一声、二節、三男

昨日、「万葉集」、ではなく「枕草子」について書いたので、その関連で、以前フェイスブックに書いたものを編集して掲載します。

「一声、二節、三男」とは、何の条件だと思いますか?実は、仏の教えを説く、布教師の条件だったといいます(「説教の歴史」関山和夫著)。

枕草子」の第30段には、「説経の講師は顔よき。講師の顔をつと目守(めまも)らへたるこそ、その説く言の尊さもおぼゆれ」とあり、布教師は美男子で、うっとりと見ていられるからこそ、尊い教えも頭に入るのであって、醜男(ぶおとこ)では、よそ見をしている間に話の内容を忘れてしまうので、説教を聴きに行く意味がありません、と清少納言も仰っています。

大宮人にとって、法華経の八講を聴きに行くのは、嵐のコンサートを見に行くような、楽しみだったようです。その伝統は、実は、ごく最近まで続いていました。司馬遼太郎は、真宗の布教師は薄化粧をしていた、といっています。

私が子供のころ、北海道の真宗の寺では、どこにも高座がありました。2畳敷きで、高さは1メートル位はあったでしょう。子供が飛び降りて遊ぶにはちょうどいい高さでした。

秋の報恩講は、報恩講でしか食べられない特別な料理と、高座に上った布教師さんの浪花節のような説教を聞くのが楽しみでした。話しが上手で面白く、説教のクライマックスになると、多くの老人が、いっせいに念仏を唱え、目頭をおさえていたものです。

竹で編んだ平べったい籠を先につけた、長い竿をのばして、喜捨を集める様子を見たのは、どこの寺だったでしょう。あるいは、夢の中だったかも知れません。

私が子供のころは、マイクを使い、黒板とチョークで講義するような説教ではなく、浪花節のように、情にうったえる説教が主流だったと思います。絞り上げるような声と節回しは、まさに浪花節でした。

当時は、浪曲の全盛期で、ラジオの演芸番組でも、村祭りでも、浪曲は付きものでした。三波春夫や村田英雄、藤圭子も、どこかで浪曲を経験しています。今なら、漫才風の笑える説教でないと受けない、かもしれませんが。