石狩のワシ派、タカ派

札幌と石狩川流域の猛禽類の狩りと子育てを動画で記録します。

「雨月物語」を4Kで観る

昨夜、綺麗に修復された映画「雨月物語」を4Kテレビで観ました。前に一度、ほんの一部しか見ていないので、本当に楽しみで、大いに期待して観ました。修復された映像は隅々までくっきり見える素晴らしいものでしたが、残念ながら、溝口健二監督の映画は完全に失敗作でした。

映画の題名は「雨月物語」ですが、99%溝口のオリジナルで、「雨月物語」という題名は必要ないと思いました。むしろ「雨月物語」としたために、「雨月物語」に対して失礼な上に、溝口の独創性を損なっています。

黒沢明の「羅生門」は黒沢の才能を開花させ、芥川龍之介の名を高める、相乗効果をもたらしましたが、「雨月物語」は、逆に、両者の良い面を打ち消し合う、悪しき出会いとなりました。

溝口監督と「雨月物語」を知らない観客にとって、「雨月物語」という題名は、台本の出来の悪さや、演技と撮影の未熟さをごまかす隠れ蓑となっています。古い怪奇な物語なのだから、多少不自然でぎこちなくても仕方がないか、という言い訳になっているのです。

京マチ子とその乳母の演技には、確かに光る部分があります。しかし、この映画の最良の部分にさえ、撮り直しをしなければならないミスは、何か所もあるのです。

京マチ子が美しい打掛を羽織るシーンの前半は素晴らしい演技でした。体を後方に反らし、きわめて低い位置から羽織り始めるのは、長い髪を打掛の外に出すためですが、その身のこなしは美しく艶めいていました。しかし、京マチ子は、後半で痛いミスを犯します。指先が打掛の脇から外に出て、まるで小学生のように、袖を通すのに手間取ったのです。しかも、その苦しい様子は、くっきりと映し出されてしまいました。

私なら、「カット」、「カット」、「カット」と怒鳴るところです。

それはさておき、この映画の一番いけない所は、「雨月物語」の芸術性を汚し、稚拙な反戦プロパガンダの匂いをまき散らしているところですが、この点は見る人の政治的な立場によって評価が分かれる所でしょう。