1970年に高校を卒業し、同じ年に大学に入った私は、入学式ばかりか、4年後の卒業式さえありませんでした。
高校の卒業式でも、卒業式粉砕を叫ぶ、30人余りのヘルメットをかぶった過激派が侵入し、壇上で取っ組み合いが起こりました。3年生の柔道部員が、過激派の一人を豪快に投げ飛ばしたことを、今でも鮮明に記憶しています。
古い木造の校舎は、卒業式の直後、原因不明の失火により焼失しました。
卒業式も入学式も、無ければ無いで、特に支障はありません。
逆に、そんな馬鹿馬鹿しい形ばかりの儀式は無意味、と儀式自体を軽蔑している人も、少なくないと思います。しかし、私はそうは思いません。
日本の儀式の退屈さには閉口しますが、儀式自体は重要だと思います。日頃、大変忙しい人々が、貴重な時間を割いて集まり、卒業生や入学生を祝福するのは、大変素晴らしいことです。
しかし、無ければ無いで、特に支障のない儀式は、世の中が平和で、秩序が維持されているからこそ、実施できるものです。武漢コロナウイルスによって日本中がパニックに陥っている現在、無理に実施する必要など、微塵もありません。
儀式は、行われて当然のものではなく、出来ることが有難いものなのです。
これは、入学式も、卒業式も無かった、私の正直な感想です。