石狩のワシ派、タカ派

札幌と石狩川流域の猛禽類の狩りと子育てを動画で記録します。

源平、南北朝、応仁の乱

応仁の乱」は、まだ、肝心の乱が始まっていないのに、記述がだんだん退屈になってきたので、大局的な歴史観を示して、まとめておきたいと思います。

この本の眼目は、第1に、内藤湖南の、現在の日本の歴史は、応仁の乱、以降のもので、それ以前の歴史とは断絶がある、という有名な歴史観を証明する意図で書かれたことです。もう1点は、藤原摂関家から興福寺に送り込まれた生臭坊主(天台座主に相当)の詳細な日記にもとづいて記述されていることです。ことによると、呉座勇一氏の学位論文がベースになっているのかも知れません。

農耕社会は、部族間の絶え間ない戦争状態、というのが私の基本認識です。日本史には、応仁の乱の前にも、源平、南北朝の長い戦乱の時代がありました。武士の家督争いでは、権力の上層部に2本の旗印があった方が、どちらの側に付くかで、戦いやすくなり、好都合です。

ではなぜ戦争が起こるのかというと、農業生産力に見合った水準に、人口を減らすためです。家督争いや勢力争い、あるいは理由は何でも、定期的に、武士の人口が半減してくれないと、年貢で支えきれなくなるからです。だから、徳川幕府によって全国が平定され、人口が、農業生産高の3000万石と均衡する3000万人で安定するまで、戦乱はズーッと続いていました。

戦乱は、応仁の乱の後も続くので、内藤湖南の説がどのように証明されるのか、今はそれだけが楽しみです。京都が丸焼けになって、文化が地方に拡散した、というだけでは、既に常識になっています。

読み終わりましたが、内藤湖南の説は出てきませんでした。はじめに、を読み返してみると、内藤湖南の説を証明するというのは私の誤解で、応仁の乱の前後で大きな違いはない、つまり日本史に断絶は無い、という説に立っているようです。