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魚川祐司著「仏教思想のゼロポイント」

魚川祐司著「仏教思想のゼロポイント 悟りとは何か」を読みました。

第1章「絶対にごまかしてはいけないこと」に示された魚川氏の「スッタニパータ」理解は、きわめてすぐれています。ゴータマ・ブッダが、仏弟子に「異性とは目も合わせないニート」になることを求めたことは間違いありません。しかし、魚川氏が“仏教思想のゼロポイント”と想定したところは、本当にゼロポイントでしょうか?

ゴータマ・ブッダの仏教は、ウパニシャッド哲学の空想的な形而上学を否定したところから生まれました。

ゴータマ・ブッダが、解脱した涅槃の境地をどのように定義していたか、その原点に最も近い記述は「スッタニパータ」の最古層、第4章の10経「死ぬよりも前に」のなかにコンパクトにまとめられています。おそらく、ブッダ自身の認識は、さらに単純明快なものだったでしょう。

解脱した人は、当然、無所有です。彼には、子も、家畜も、田畑も、地所もありません。したがって、我がものに対する執著もありません。

その行動は道徳的です。怒らず、恐れず、誇らず、偽らず、あとで後悔するような悪事をなさず、よく思慮して語り、言葉を慎みます。

形而上学論争にもかかわりません。バラモンたちや世間の人々の非難を気にかけず、自説にこだわって論争に巻き込まれることもありません。未来に希望を抱かず、過去をくよくよ憂えず、現在においても五感の快楽から離れ、煩悩の残像が燃え盛ることもありません。

彼には、生存のための妄執も、生存を断滅する妄執もありません。解脱した聖人は、死ぬよりも前に、生死不問の平安の境地である涅槃に到達しているのです。

しかし、ブッダの死後、ゴータマ・ブッダという頑丈な防波堤を失った仏教は、バラモン教ヒンドゥー教)の荒波にもまれ、教義だけは立派になりますが、その実態は、ヒンドゥー教へと次第に回帰し、大乗仏教に至って、両者はほとんど区別しがたい、現世利益と死後の救済を祈祷する、信仰宗教となってしまいます。

魚川氏が研究する上部座仏教は、回帰する過程の第一段階にあります。しかも、魚川氏が紹介するウ・ジョーティカ師の思想には禅宗の影響もみられるようです。

「仏教思想のゼロポイント」をより深く理解するために「愛とは何か 悟りとは何か」の併読をお勧めします。ここには、ゴータマ・ブッダがなぜ愛を否定し、仏弟子に「異性とは目も合わせないニート」になることを求めたか、その理由が明確に示されています。